これまでのあらすじ
仲哀天皇と神功皇后の御子である応神天皇は即位し、多くの子供をもうけました。
社会的にも大きな戦乱もなく、平穏に満ちていました。
「古事記」における百済の朝貢(テウコウ)
応神天皇の時代には、海部、山部、山守部、伊勢部を定められ、
また、剣池(ツルギノイケ:奈良県橿原市石川町にある灌漑)も作られました。
海部、山部、山守部、伊勢部とは
山や海などそれぞれを管理する部民。
灌漑(かんがい)は
農作地に水を引くための用水路です。
また、新羅人(シラギビト:朝鮮半島の人々)が渡来し、
建内宿禰命が新羅人を率いて、
渡の堤池(ワタリノツツミイケ:渡来人用の貯水池)として百済池(クダラノイケ)を作らせました。
新羅人を率いて作ったのに百済池という名前なのは謎です。
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また百済の国主(コニキシ:古代朝鮮語で国王の意味)である照古王(ショウコオウ)が、
牡馬一頭と牝馬一頭を阿知吉師(アチキシ)に持たせ応神天皇に献上しました。
照古王(ショウコオウ)は百済の第13代の近肖古王(在位346〜375)です。
この阿知吉師は阿直史(アチキノフビト)らの祖です。
また、太刀と大鏡も献上しました。
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応神天皇は百済国に
と命じ、そして命を受けて百済国から派遣されたのが和邇吉師(ワニキシ:王仁とも書きます)です。
和邇吉師は論語十巻・千字文(三国時代の魏の学習書か?)一巻、合わせて十一巻を共に献上しました。
この和邇吉師は文首(フミノオビト)らの祖です。
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さらに、手人韓鍛(テヒトカラカヌチ:鍛冶職人)の卓素(タクソ)、
呉服(クレハタトリ:機織り女)の西素(さいそ)の二人も派遣されました。
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また 、秦造(ハタノミヤツコ)の祖、漢直(アヤノアタイ)の祖、
杜氏(トウジ:酒を造る人)の須須許理(ススコリ)らも渡来しました。
須須許理が大御酒(オオミキ:天皇、神に差し出される御酒)を醸して天皇に献上すると、
天皇は大御酒に気分を良くして、御歌を詠みました。
🍶須々許理が 醸(カ)みし御酒に われ酔ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒(エグシ)に われ酔ひにけり 🍶
現代語訳
須々許理が 醸(かも)した酒に私は酔った
災厄を払う酒、笑いが溢れ楽しい酒に私は酔った
このように歌い外出した時、
杖で大坂の道中(二上山の北側を越える道。穴虫越え。)の大きな石を打とうした時、その石が走って避けました。
それで、諺で「堅岩(カタイシ)も酔人を避く(堅い岩すら酔っ払いを避ける)」と言うのです。
はるさん的補足 渡来人がやってきた理由と秦氏
応神天皇の時代には多くの渡来人がやって来ました。
渡来人がやってきた理由
4〜7世紀、高句麗・百済・新羅の三国時代を迎えた朝鮮半島では戦乱が絶えませんでした。
この情勢の中、倭(日本)との対外政策のために朝鮮の役人たちが次々と来日しました。
また、戦乱に巻き込まれた豪族達も、集団で日本に亡命したり、
指導者が多くの農民や手工業者を引き連れて移住してきたりしたのです。
彼らがもたらせた学問、思想、裁縫、酒造、農耕、土木治水などの技術は様々な分野で技術革新をもたらせました。
当然、渡来人は朝廷で重んじられました。
有力豪族 秦氏
応神天皇の時代に、秦氏の祖である弓月君(ユズキノキミ)も渡来しました。
秦氏は山背国(京都府)を拠点に水田開発、養蚕、機織を行ない、富を築きました。
土木治水技術も持っていたので、応神・仁徳・推古天皇期に行なわれた大治水事業の中核となって活躍し、奈良時代には宮の造営もしています。
欽明天皇の時代に秦大津父(ハタノオオツチ)が初めて官職に就いて以降、聖徳太子の側近となり、広隆寺を建てた秦河勝(ハタノカワカツ)などを輩出しています。
秦氏の技術と富は、文化の発展のみならず朝廷の発展も支えました。
古事記の他の記事
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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)