(107)『古事記』垂仁天皇⑥お菓子の神様 タジマモリ 常世国の実

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これまでのあらすじ

第11代垂仁天皇の御時世は身内の反乱子育ての悩み、お嫁さん選びなど様々なことがありました。

「タジマモリ(多遅摩毛理)」

垂仁天皇は「タジマモリ(多遅摩毛理)」という人を常世国(トコヨのクニ)に派遣し、

季節を問わず香ばしく実る「ときじくのかくの木の実(登岐士玖能迦玖能木実」(不老不死の実)をお求めになりました。

タジマモリ」は苦労の末、ついにその国に行くことができ、木の実を手に入れ、

・冠の形に実がついたものを8連
・串刺し形に実を貫いたものを8個

持ち帰りました。

しかし、都に着いてみると、

垂仁天皇は153歳でお亡くなりになっており、

菅原の御立野(ミタチノ)(奈良市尼辻西町)に葬られていました。

垂仁天皇陵 (写真:友人提供)

タジマモリ」は持って帰ってきた

実の半分を皇后「ヒバスヒメ(比婆須比売)」に差し上げ、

残りの半分を垂仁天皇陵に供えると

タジマモリ
常世国の時じくの香(かく)の木の実を持ち帰り参上し、御前に仕え居ります。

と泣き叫び、そのまま果てて亡くなりました。

時じくの香の木の実」というのは今の(ミカン)です。

ヒバスヒメ」がお亡くなりになる時に石棺(イシキ)作りを定め、土師部(ハニシベ)を定めました。

土師部(ハニシベ)については次回、番外編として説明します。

ヒバスヒメ」の御陵は狭木(サキ)の寺間(テラマ)(奈良県山陵町)にあります。

「タジマモリ」と常世国について

タジマモリの系譜

タジマモリの系譜

タジマモリ」は新羅(シラギ)の王子である「アメノヒボコ(天之日矛)」の4代目の子孫とされていて、

三宅連の祖とされています。

兄の「タジマヒタカ(多遅摩比多訶)」の孫は神功皇后です。

橘(ミカン)は不老不死の実ではありませんでしたが「タジマモリ」はお菓子の神様になり、

タジマモリ」という文部省歌にもなっています。

常世国とは

常世国道教で説くところの

理想郷・桃源郷のようなものだと思われます。

そこでは年も取らず病気もしないことになっているので、

そこで取れる橘は不老不死の実ということになります。

道教は中国で神仙思想などいくつかの要素の上に成り立つ民間宗教として成立し、

日本には推古天皇治世の頃入ってきたのではないかと言われています。

神仙思想とは、簡単に言うと人の命が永遠であることを神や仙人に託して希求した思想です。

日本では国家による保護を受けたことはありませんが、天武天皇や一部の貴族たちに受け入れられ定着したようです。

古事記」では大国主命の国作りを手伝った「スクナヒコナ(少名毗古那神)」が常世国に行ってしまいましたね。

タジマモリ」は渡来系の氏族出身なので神仙思想に精通していたために遣わされたようです。

下の写真は京都市にある吉田神社内の「菓祖神社」です。

祭神としてタジマモリが祀られています。

菓祖神社 (京都府)

はるさん的補足 垂仁天皇陵

垂仁天皇陵 宝来山古墳 (写真:友人提供)

垂仁天皇陵は水をたたえた周濠に浮かぶ前方後円墳です。

垂仁天皇が求めた不老不死の実がある「トコヨノクニ」は

古事記」では常世国という漢字が使われていますが、

丹後国風土記」では「蓬莱山」という字で「トコヨノクニ」と読ませています。

それにちなみ、垂仁天皇陵は「宝来山(ホウライザン)古墳」と呼ばれてきました。

周濠には「タジマモリ」の塚があり、御陵の側にミカンの木が植えられているそうです。

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コメント一覧
  1. タジマモリさまのお話しには国内問わず外国のお話しにも登場します逸話ですね
    不老不死は桃とおもっておりました。ミカンも桃同様香しき食物な為、重宝されたのでしょうか
    文部省歌「田道間守」のYouTubeを拝見。「なるほど~」と思いました。
    タジマモリさまは渡来人故に遣わされた事も納得です。

    • タジマモリ様は忠実に命令に従ったのですね。
      垂仁天皇の回りの方は、タイミングが悪かったり、不幸になるようですね。
      崇神天皇と景行天皇(というか息子のヤマトタケル)が華やかな活躍をするので、エピソードを垂仁天皇に溶け込ませたような気もします。

  2. 権力や富が十分ある者が、不老不死の食べ物を探し求めることは古今東西よくある話ですね。垂仁天皇もそのお一人だったのですね。
    柑橘類でいろいろなお菓子が作れるので、タジマモリが橘を持って帰ったことは菓子界では大きな功績だったと思います。
    タジマモリのように、新羅からこの時代、渡来人が来て、高い身分の氏になる方もいたことがわかりました。
    蓬莱山は神仙が住むという伝説の山という意味ですね。
    垂仁天皇陵には、タジマモリの塚と伝えられる小島があって、苦労して得たミカンの木も植えられて、タジマモリはちょっと救われましたね。

    • ありがとうございます♪
      いつまでも生きていたいというのもありますが、敵に捕まって恐ろしい殺され方をしたくないという思いもあったようですね。
      古代から日本人かなり大陸に渡っていたようですし、日本にも渡来人が来て、教えあっていたようですね。
      タジマモリの出現は神功皇后が新羅攻めをすることの伏線になっているようですが、その辺りから国際問題になりますね。
      、もっと前は友好的だったのかと思うと残念です。
      垂仁天皇は殉死を禁止したのですが、ご自分の墓前で亡くなったタジマモリのことはどう思われたんでしょうね。

  3. 垂仁天皇は実際、何才で亡くなられたのでしょうね?昔の寿命は今と比べ、随分と短かったような気がしますが。タジマモリが行った常世の国とは何処だったのでしょうか?田間道守の歌が残っているということは、史実として、みかんを持って帰って来たのだと思います。昔から権力者は不老不死の食べ物を探すのは興味深いです

    • ありがとうございます
      古代日本は一年二歳説というのがありますので、半分くらいかと。
      権力者は普通に死ぬのではなく、敵に酷い目に合わされて亡くなることが多かったのでしょうね。
      垂仁天皇は何かとタイミングが悪く、周りの人が気の毒な気がします。
      本人がいい人そうなだけに残念ですね。

  4. 垂仁天皇に不老不死の実は間に合わなかったのですね
    というかニニギがイワナガヒメを娶っていればそもそも天子は不老不死だったという・・・
    似たエピソードの中に因果を感じてしまいました

    というか垂仁天皇長生きしすぎ
    一年二歳説というものもあるのですね。何か出来事があった(元服したり結婚したり)その度に歳を取ったことにした、なんて事もあったかも?!色々縁起を担いだりもしていそうですし

    •  邇邇芸のエピソードと垂仁天皇は似てますね。
      ニニギは天津神と人間としての天皇のへの移行、
      垂仁天皇は偉大な2人の天皇(景行天皇の場合は息子のヤマトタケル)のツナギとして、エピソードを溶け込ませられたのではないかと思います。
      1年2歳説は(101)で説明しているのでよかったらご覧ください。

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