これまでのあらすじ
第11代垂仁天皇の御時世は身内の反乱、子育ての悩み、お嫁さん選びなど様々なことがありました。
「タジマモリ(多遅摩毛理)」
垂仁天皇は「タジマモリ(多遅摩毛理)」という人を常世国(トコヨのクニ)に派遣し、
季節を問わず香ばしく実る「ときじくのかくの木の実(登岐士玖能迦玖能木実」(不老不死の実)をお求めになりました。
「タジマモリ」は苦労の末、ついにその国に行くことができ、木の実を手に入れ、
・冠の形に実がついたものを8連
・串刺し形に実を貫いたものを8個
持ち帰りました。
しかし、都に着いてみると、
垂仁天皇は153歳でお亡くなりになっており、
菅原の御立野(ミタチノ)(奈良市尼辻西町)に葬られていました。
「タジマモリ」は持って帰ってきた
実の半分を皇后「ヒバスヒメ(比婆須比売)」に差し上げ、
残りの半分を垂仁天皇陵に供えると
と泣き叫び、そのまま果てて亡くなりました。
「時じくの香の木の実」というのは今の橘(ミカン)です。
「ヒバスヒメ」がお亡くなりになる時に石棺(イシキ)作りを定め、土師部(ハニシベ)を定めました。
土師部(ハニシベ)については次回、番外編として説明します。
「ヒバスヒメ」の御陵は狭木(サキ)の寺間(テラマ)(奈良県山陵町)にあります。
「タジマモリ」と常世国について
タジマモリの系譜
「タジマモリ」は新羅(シラギ)の王子である「アメノヒボコ(天之日矛)」の4代目の子孫とされていて、
三宅連の祖とされています。
兄の「タジマヒタカ(多遅摩比多訶)」の孫は神功皇后です。
橘(ミカン)は不老不死の実ではありませんでしたが「タジマモリ」はお菓子の神様になり、
「タジマモリ」という文部省歌にもなっています。
常世国とは
常世国は道教で説くところの
理想郷・桃源郷のようなものだと思われます。
そこでは年も取らず病気もしないことになっているので、
そこで取れる橘は不老不死の実ということになります。
道教は中国で神仙思想などいくつかの要素の上に成り立つ民間宗教として成立し、
日本には推古天皇治世の頃入ってきたのではないかと言われています。
神仙思想とは、簡単に言うと人の命が永遠であることを神や仙人に託して希求した思想です。
日本では国家による保護を受けたことはありませんが、天武天皇や一部の貴族たちに受け入れられ定着したようです。
「古事記」では大国主命の国作りを手伝った「スクナヒコナ(少名毗古那神)」が常世国に行ってしまいましたね。
「タジマモリ」は渡来系の氏族出身なので神仙思想に精通していたために遣わされたようです。
下の写真は京都市にある吉田神社内の「菓祖神社」です。
祭神としてタジマモリが祀られています。
はるさん的補足 垂仁天皇陵
垂仁天皇陵は水をたたえた周濠に浮かぶ前方後円墳です。
垂仁天皇が求めた不老不死の実がある「トコヨノクニ」は
「古事記」では常世国という漢字が使われていますが、
「丹後国風土記」では「蓬莱山」という字で「トコヨノクニ」と読ませています。
それにちなみ、垂仁天皇陵は「宝来山(ホウライザン)古墳」と呼ばれてきました。
周濠には「タジマモリ」の塚があり、御陵の側にミカンの木が植えられているそうです。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)