これまでのあらすじ
仲哀天皇と神功皇后は建内宿禰大臣(タケウチノスクネノオオオミ)と共に神託を求めました。
住吉三神が神功皇后に依り憑き、
西の彼方の国を帰属させよう
と、おっしゃいましたが、
仲哀天皇は信じなかったので罰を受け崩御しました。
さらに、住吉三神は
神功皇后のお腹にいる子が天下を収めることになる。
と、おっしゃいました。
「古事記」書かれる神功皇后の新羅親征
神功皇后は住吉三神に言われたように、軍勢を整え、船を並べ海を渡ってお行きになりました。
すると、海の魚が集まって来て、船を背負い航行を助けます。
そして強い追い風がわき起こり、皇后の船は大波を立てて進んだので、その波が新羅(シラギ)国に押し寄せて国土の半分を侵してしまいました。
新羅の国王は、恐れ
と言いました。
こうして、新羅国を(天皇に服属する)御馬飼と定め、百済(クダラ)を屯家(ミヤケ)と定めました。
屯家とはこの場合、海を渡った時の天皇の直轄地のことです。
そして皇后は新羅の国王の城門に住吉三神の依代(ヨリシロ)になる杖を突き立てて、日本を守護する神として祀りました。
依代とは、神霊が寄り付くもののことです。
その後、皇后は海を渡って帰国なさいました。
はるさん的補足 7世紀ころ作られた話か? 新羅侵攻
歴史学が語る軍の派遣
4世紀末から5世紀初頭にかけて、日本が朝鮮半島に軍を派遣したのは事実のようです。
その内容は
・高句麗(コウクリ)が南下策をとり、新羅と提携して百済を圧迫
・日本は百済の要請に応えて出兵
・日本、新羅の国内まで攻め入る
というもののようです。
「古事記」は歴史的事件を反映しているようにも見えます。
しかし高句麗の王が残した好太王碑(コウタイオウヒ)の碑文によると、
400年と404年の戦いで、日本は逆に壊滅状態にされ撃退されたことになっています。
ですから新羅を服属させたわけではなかったようですね。
7世紀半ばに話が創作されたか
7世紀に入ると大和政権が国内の安定を確保してきたと言われています。
そして朝鮮半島への野心が起きたと見られる、7世紀半ばに、このような伝承が創作されたのではないかと見られています。
そのため、新羅征伐という大事件をこのように抽象的かつ神話風に仕立てているものと思われます。
政治的プロパガンダに利用される
このようなことから、神功皇后は実在性を疑問視されることがあります。
しかし、明治から太平洋戦争終了時までは学校教育で実在の人物として教えられ、肖像画は紙幣にも使われていました。
「古事記」や「日本書紀」に記された新羅親征は政治的プロパガンダとして利用された過去があることも忘れてはいけない事実です。
古事記の他の記事
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上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)