これまでのあらすじ
神武天皇から第9代開化天皇までの実在が疑問視される天皇の系譜と解説が終わりました。
多くの豪族の子女と結婚をし、生まれた子供たちの多くも豪族や国造の祖先となりました。
第10代 崇神天皇
第10代崇神天皇以降は実在した可能性が高い天皇だと言われています。
まだまだ神話的なエピソードは出てきますが、歴史書として捉えられる面も増えてきます。
「古事記」は崇神天皇に関しての記述の前に
皇妃と皇子女の紹介から始まります。
「古事記」における「皇妃と皇子女」
崇神天皇は磯城(シキ)の水垣宮(ミズカキノミヤ)で天下を治めました。
崇神天皇は
紀伊国の造の娘である「トオツアユメマクワシヒメ(遠津年魚目々微比売)」と結婚して
・「トヨキイリヒコ(豊木入日子命)」(上毛野、下毛野の祖先)と
・「トヨスキイリヒメ(豊入日売命)」(伊勢大神の宮に仕え祀りました)が生まれました。
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また、尾張連の祖先「オオアマヒメ(意富阿麻比売)」と結婚し
・「オオイリキ(大入杵命)」
・「ヤサカノイリヒコ(八坂之入日子命)」と2人の娘、
計4人の御子が生まれます。
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そして(オジの)「オオビコ(大毗古命)」の娘(つまり従兄弟の)
「ミマツヒメ(御真津比売命)」と結婚し、
・「イクメイリヒコイサチ(伊玖米入日子伊沙知命)」(後の第11代垂仁天皇)
・「イザノマワカ(伊耶能真若命)」
娘3人最後に
・「ヤマトヒコ(倭日子命)」が生まれました。
崇神天皇の御子は男王7人、女王5人、計12人です。
「ヤマトヒコ(倭日子命)」が亡くなった時、初めて墓に殉死の人を並べました。
(崇神天皇のお話しはまだまだ続きます。)
はるさん的補足「古事記」唯一の殉死
「古事記」では殉死という言葉は「ヤマトヒコ(倭日子命)」の場面でしか使われていません。
しかし、権力者の死に伴う殉死者や馬を殉葬という形で生き埋めにすることは古代では珍しいことではなかったようです。
「日本書紀」によると、生き埋めはあまりにも残虐であるという理由から、倭日子の兄である垂仁天皇が強制的な殉死を禁止にしたそうです。
また「日本書紀」には垂仁天皇に「ノミノスクネ(野見宿禰)」が生き埋めをする代わりに埴輪を立てることを提案したと書かれています。
ただし「ノミノスクネ」が生き埋めを廃止したという件は、創作だろうとする研究者が多いです。
「古事記」では、これからも「自主的に」後を追って亡くなる方のお話しは出てきますが
「強制的な」生き埋めは一応「ヤマトヒコ(倭日子命)」をもって終了となりました。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)