『古事記』[序文]「古事記の企画」口語訳と解説 稗田阿礼について
稗田阿礼を祀る「賣太(メタ)神社」

「古事記」には序文があります。

「古事記」を編纂した太安萬侶が元明天皇に献上した際の上表文とされています。

元明天皇
はる
上表文とは
・君主に文書を奉ることや
・その文書
のことです。

序文は「過去の回顧」「古事記の企画」「古事記の成立」という項目があります。

この記事では「古事記の企画」を読み解いていきます。

古事記の企画」のあらすじ

672年に起きた壬申の乱および天武天皇の素晴らしさと正当性を強調。

天武天皇が今までの歴史書を正しく一本化して天皇政治を正当化するために「古事記」の編纂を指示した。

稗田阿礼帝紀旧辞を読ませて暗唱させていたが「古事記」の編纂の前に天武天皇が崩御(686年)してしまった。

壬申の乱とは

登場する天皇がたの系譜(赤線は女帝)

はる
ほぼ天皇だけの系譜でも複雑ですが皇后や皇女を含めると大変な血縁関係になります。
「古事記」を献上された元明天皇
天智天皇の娘
大友皇子の異母兄弟
天武天皇持統天皇の息子である草壁皇子の妻
天孫ニニギのモデルか?と言われる文武天皇の母
です。

壬申の乱を簡単に説明すると

672年に天智天皇が崩御された後、皇位継承をめぐって天智天皇の長男である大友皇子(明治時代に第39代 弘文天皇の称号を追号)に対し、天智天皇の弟である大海人皇子(第40代 天武天皇)が挙兵して勝利した内乱です。

はる
反乱を起こした側が勝つのはほとんどないこと。
古事記」や「日本書紀」は勝利した天武天皇が命じて編纂されたこと。
を念頭に置いて読んでいただくとわかりやすいかもしれません。

「古事記」上巻 序文「古事記の企画」の口語訳

「賣太神社 かたりべの碑」(奈良県大和郡山市)

はる
全文の口語訳ですが( )内は小見出しも含めて私が補足をしました。

飛鳥清原大宮で日本を御統治された天武天皇の御世になりました。

(天智天皇崩御から壬申の乱まで)

(その過程を述べると)吉野に引き篭もった大海人皇は皇太子ながら、天に昇る前の水中の龍のような徳をお持ちで、しきりに轟く雷のように即位の時機が到来してその徳を発揮されようとしていました。

夢の中(神の声を聞くために床に入る儀式)で聞かれた神託の歌を聴き、夜の川に行って(道教的な)占いをしたところ黒雲の広がるのを見て、やがて(ご自分が)皇位を継承されることを予知されたのです。

しかし天命の時が到来しないので、(大海人)皇子は皇太子の地位を去って、蝉が殻を脱ぐようにお召し物を脱いで法衣に着替え、出家のために吉野山に籠もり皇位を望まない立場を示しました。

(その後)天運と兵が備わったので東国に虎のように勇ましく進出されることになりました。

大海人皇子は素早く輿(コシ)を進めて、山を越え川を渡り、その軍勢は雷電らいでんのような凄まじい勢いで進撃しました。

(大海人皇子の息子の高市皇子)が率いる軍は稲光のように先行しました。


(大海人皇子が)矛を杖としてつくと威勢があがり、勇士が煙のように四方から起こり(大海人皇子が進む所の)赤い旗が兵器を輝かして、悪者ども(大友皇子率いる近江の朝廷軍)は、砕け易い瓦が崩れるように敗れ去ったのです。

こうしてまだ何日も経たないうちに、邪気は自然に清められました。

天武天皇

(壬申の乱に勝利した後から天皇としての天武天皇)


そこで(天武天皇周の武王と同じように)戦に用いた牛や馬を放って休息させ、心安らかに大和に帰り、(漢の劉邦と同じように軍の)旗を巻き矛を収めて、戦勝を喜んで歌い踊り、飛鳥に滞在されました。

木星が酉の年の位置にある2年の2月に大海人皇子は、清原大宮で高御座(タカミクラ)に昇って御即位されました。


(天武天皇の)政治は、古代中国の黄帝(コウテイ)に勝り、聖賢は周の武王にも勝っておられました。


(天武天皇は天子のしるしとしての三種の)神器を承け継いで天下を統治し、天照大御神(アマテラス)の御霊を継承して国の隅々まで統合なさいました。


善き政治が行なわれたので、陰陽の二気が正しく作用し、また、木火土金水の五行が順序正しく循環(陰陽五行)しました。

天皇はの教えを崇敬して人民にも勧めて、優れた徳政を行なって、その及ぶ範囲を国内に広められたのです。


その上、天皇の英智は海のように広く、上古の事を深く探究され、御心は鏡のように明るく輝いて、先代の事をはっきり見通されました。

(天武天皇が「古事記」の編纂を命令)

(そして天武天皇は681年に)
「私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀(天皇の正史)および本辞(諸氏族の家伝)には、真実と全く違い、多くの虚偽を加えたものがあるようだ。

今この時に、その誤りを改めておかないと、何年も経たないうちに、その正しい真実は失われてしまうに違いない。

そもそも、帝紀本辞は、国家組織の骨格を示すものであり、天皇政治の基本となるものである。

そこで正しい帝紀を選んで記し、本辞をよく検討して、偽りを削除し、正しいものを定めて、後世に伝えようと思う


と仰せられました。

その頃、氏は稗田(ヒエダ)名は阿礼(アレ)年は二十八歳になる舎人(トネリ・天皇の護衛を主な任務にする下級役人)が(天武天皇の)お側に仕えていました。


この人は生まれつき聡明で、一目見ただけで暗唱することができ、一度耳に聞いたことはすべて記憶することができました。

そこで天皇は阿礼に仰せられて、帝皇の日嗣(ヒツギ・天皇代々の継承)と先代(サキツヨ・諸家代々)の旧辞(フルコト・古伝)を誦み習わせられました。


しかしながら、年月が経ち天武天皇が崩御され、時世が移り変わってしまいその御計画は完成には至らなかったのです。

(本文ここまで)

はる
序文を書いたとされる太安萬侶は、中国の歴史書に精通し、賢帝たちと比べることによって天武天皇を褒め称えました。

はるさん的補足 稗田阿礼について

太安萬侶が実在したことは確認されましたが、稗田阿礼は確認されていません。(参考記事「古事記序文 過去の回顧」)

一説には天の岩屋戸神話で活躍したアメノウズメの後裔と言われています。

役職が舎人ということで、当然のように男性だと思われていましたが、江戸時代の国学者平田篤胤が「稗田阿礼は女性だった」という説を唱えました。

アメノウズメがシャーマン的な能力を発揮した女神であり、猿女(サルメ)の祖であること。

猿女とは

鎮魂祭に奉仕する女性で

古くは原始的呪的な伝統をひく滑稽な歌舞をもって宮廷神事に仕えた巫女のこと

稗田という姓は奈良県大和郡山市の地名に基づくもので、猿女氏と稗田氏が同族であったと考えられること。

平安朝に存在した稗田氏族の女官職はオバからメイに継承されていた。それは生涯独身で過ごす巫女職の継承法であったこと。

から考えて稗田阿礼は巫女(つまり女性)であった。

と平田篤胤は主張したのです。

太安萬侶は昭和になってから実在したことが確認されましたが、稗田阿礼のことは何もわかっていません。もう少ししたら分かるでしょうか。

巫女であるとすると、

・「古事記」には「日本書紀」にない神話が多く載っていること

・神話が伝承する口調で書かれていること

の説明がつくように思えます。

わかっていないことが多いのでそんな想像をするのも「古事記」の楽しみの一つですね。

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上巻(序文から海幸彦山幸彦)

中巻(神武天皇から応神天皇)

下巻(仁徳天皇から推古天皇)

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コメント一覧
  1. この度もはるさんの解説、読みを交えお勉強させて頂きました。
    古事記の企画の口語訳はラジオドラマの様にて詳細にその光景を表し想像適います。
    戦に於いては未来永劫“大義名分”を示され正統性を訴求されました様にも思えます。
    はるさん的補足の「巫女であるならば…」“神話は伝承します口調にて記されていること”。
    この一文に「なるほど~」と感心致します。

    • ありがとうございます♪♪
      このようなまどろっこしい表現の文章を最後まで読んでくださったことに感謝致します。
      親族での殺し合いですから、後世に何を言われるか気にしたのでしょう。
      雄略天皇だって歴史書を書かせていたら、品のいい賢王という評価になっていたかもしれません。
      それだけ、天武天皇や持統天皇が今に至るまで
      影響力のある歴史書を作らせた意義があったということでしょう。
      もちろん藤原不比等の影響も絶大ですね。
      武士の戦にも大義名分が必要ですね。ハタから見ると、私利私欲に見えても大義名分がありますね。笑
      壬申の乱やその後の皇子たちの殺傷についても、とりあえず大義名分がありました。
      平田篤胤は(悔しいけれど)いい問題点を提供してくれたと思います。
      会ったこともないくせに勝手に「本居宣長の弟子」と名乗っていた所はインチキくさいのですが、私はこの件に関しては篤胤の意見に賛成なのです。
      それまで舎人という役職だけで深く考えられることなく男性だと決めつけられていたので、篤胤さんは頭が柔らかいのではないかと
      思います。
      ちなみに宣長は稗田阿礼のことを老翁と表現していらっしゃいました。笑

  2. こちらの記事は、大変な大作ですね。まずは人物・系譜図を起こされる、
    それだけでも大変ですが、内容を間違いの無いよう・ごちゃつかないよう簡潔に・
    でも分かりやすいようにまとめられていて、本当に素晴らしい記事だと思います。

    古事記ですが、勝てば官軍!ある意味言いたい放題、あと、
    自分が天皇として世を治めるのは天の意志である!といった正当化、
    いつの時代もそんな感じの、その元祖とも言えるもの、という感じでしょうか(^◇^;)

    ひとまず天武天皇が完全に正しい、素晴らしい!と讃えるのはともかくとして。
    稗田阿礼の女性説そしてシャーマン説等、確かに合点がいく話で。当時のものだと
    Authorのプロフィールが書いてない事や、あと名前だけでは男女の判別もつきにくい、など
    色々ありますね。

    • ありがとうございます♪♪
      序文は個人的にあまり好きではないというか、色々と勘繰りたくなるので以前は飛ばしていたのですが、ブログを読んでくださる方々にもニュートラルな感想を頂きたくて遅ればせながら載せることにしました。
      もし雄略天皇が書かせていたら、古代のジャイアンなどと言われることはなく、品のいい大王になっていたことでしょう。
      書かせた人の勝ちですね!
      名前から男女の判別がつきにくい、、、まさにそうなんですよね。
      古事記の文体を見ると、例えば
      雄略天皇に采女が(165)の記事で 水音の表現が「こおろこおろ」となっていたり、歌を読む場面でわざわざ「これは浮歌(語尾が上がり調子で詠む)です」と書かれていることなどから、口伝だったことが想像されます。
      良くも悪くもエリート文官には書けない表現のような気がします。

  3. 稗田阿礼は実在したとしたら、すごく聡明な人だったのですね。巫女だったら頷けることが多いのですね。本当に巫女だったのか、今後分かるといいです。
    系譜を見ると、天武天皇と持統天皇は叔父、姪の関係で草壁皇子と元明天皇は甥、伯母の関係で、婚姻関係なので、複雑ですね。
    天武天皇のときは安定していたことがよくわかりました。

    • ありがとうございます♪
      稗田阿礼は聡明なので学問や文章の神様になりました。
      巫女か女性の文官かわかりませんが今後分かるといいですね。
      この時代、白村江の戦いなどもあり、国内外がバタバタする中で、天皇家の結束を強め、しかし自分を脅かす皇子は排除した、、、正当化しないと足元をすくわれそうです。
      でも、(かなり恥ずかしいくらいに)賛美させたことによって、天皇家は武士たちからも滅ぼされず敗戦後も存続できたのだと思います。

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