これまでのあらすじ
仁徳天皇は即位すると、
民のための治水工事を行ったり、
免税をしたりしたので、
その時代は「聖帝の御世」と呼ばれます。
皇后の嫉妬と吉備の黒日売
仁徳天皇は、恋多き天皇でもあり、皇后の石之日売(イワノヒメ)はそのことでよく嫉妬していました。
そのため、天皇がお召しになろうとする妃は宮中に入ることも出来ず、もしそのような噂を聞くと石之日売は、足をバタバタさせて嫉妬しました。
ある時、天皇は吉備(岡山県)の海部直(アマベノアタイ)の娘の黒日売(クロヒメ)という乙女の容姿がとても美しいと聞き、妃にすることにしました。
海部直とは
吉備の海人部を分掌した豪族のことです。
しかし黒日売は、石之日売の妬みに恐れ、故郷に逃げ帰ってしまいました。
天皇は高殿(タカドノ)から黒日売の乗る船が出航して海に浮かんでいるのを見て、歌を詠みました。
黒鞘を出た刀身のように美しい我が妻が国に帰ってしまう。
その歌を聞いた石之日売はさらに激怒し、
人を難波の大浦(大阪湾)に遣わせ、故郷へ帰ろうとする黒日売を船から追い下ろし、陸路を歩いて帰らせ追放しました。
しかし、仁徳天皇は黒日売を恋しく思って石之日売に嘘をついて、
と仰って出掛けました。
🍃
そして淡路島にいらっしゃる時に遠くを見て歌を詠みます。
淡路島も
淤能碁呂島(オノゴロジマ)も
檳榔(ビンロウ)の生える島も見える。
離れた島も見えるなあ。
そして、仁徳天皇は淡路島から島伝いに黒日売のいる吉備国へ行きました。
黒日売は、天皇を山の畑にご案内して、お食事を振る舞いまいました。
また、黒日売が、天皇に熱い吸い物を作るために青菜を摘んでいると、天皇は黒日売の所に来て、歌を詠みました。
吉備の乙女(黒日売)と一緒に摘めば
実に楽しいことだ
🍃
天皇が難波の都に帰る時、黒日売は天皇に歌を献上しました。
雲が東の方へ離れ
遠のいて行きます。
でも私は陛下を忘れることはありません。
また、続けて、
私の陛下。
隠れ水が地下を流れるように
こっそりと心を通わせて行くのはどなた様でしょう。
私の陛下!
こうして、仁徳天皇は難波にお帰りになりました。
黒日売の墓は岡山県総社市にある「こうもり塚古墳」だという言い伝えがあります。
はるさん的補足 石之日売の父親 葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)
石之日売はとても嫉妬深い妻として描かれます。
けれどもそれは石之日売が本当に怖かったというわけではなく、
当時の石之日売の実家である葛城家と天皇家の力関係を比喩していると言われています。
石之日売の父親 葛城襲津彦
葛城襲津彦は4世紀末から5世紀に実在した可能性が高い人物だと考えられています。
神功皇后の新羅親征の時に遠征軍を指揮して軍功を挙げたことで、葛城氏を一大勢力に発展させました。
建内宿禰の息子だという説もあります。
4世紀末に造られた陵墓は天皇家に匹敵する規模でした。
「日本書紀」に書かれている葛城襲津彦
「日本書紀」には 神功皇后に新羅を討つよう派遣された葛城襲津彦が、新羅から2人の美女を贈られて懐柔されてしまい、
神功皇后の命令に反して加羅国(カラコク)を討ってしまいます。
そして皇后の怒りをかい、自害したとされています。
「万葉集」にも登場する葛城襲津彦
🍃葛城の襲津彦 真弓、荒木にも、
頼めや君が 我が名乗りけむ🍃
(作者不明)
現代語訳:
葛城襲津彦の持つ弓に使う荒木のように
頼もしいあなたが、私の名を告げた(求婚する)のでしょうか。
葛城氏の盛衰
葛城氏は神功皇后の時代に台頭し、一大勢力となりました。
石之日売が皇后となっただけでなく、その息子たちが3人も天皇になったことから見ても、日本書紀に書かれたことは創作でしょう。
万葉集の歌から想像できるのは、葛城襲津彦は当時、「強さや勇敢さの象徴的人物」であったことです。
しかし、この後、雄略天皇の時代に葛城家は滅亡します。
ですから、古事記や日本書紀が編纂された時には、滅亡していました。
日本書紀における葛城襲津彦の書かれ方も、古事記における石之日売の書かれ方も葛城家の力が無くなったことを表しているでしょう。
気の毒ですが、石之日売の嫉妬物語はまだまだ続きます。
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