(127)『古事記』仲哀天皇 后妃と皇子女 応神天皇誕生の謎
仲哀天皇、神功皇后、建内宿禰を描いた絵 (香椎宮そばの不老水 福岡県)

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これまでのあらすじ

第13代の成務天皇には御子がお一人いらっしゃいましたが、成務天皇より先に亡くなってしまったのでしょうか

ここで直系が途絶えてしまいます。

第14代仲哀天皇

そこで日本武尊の皇子、仲哀天皇が即位することになりました。

「古事記」における后妃と皇子女の記述

まずは恒例の家族紹介です。

人数は少なめですが、入り組んでいます。

仲哀天皇を取り巻く皇族方

仲哀天皇穴門(アナト)の豊浦宮(トヨウラノミヤ 現在の山口県下関市長府豊浦町辺り)と

筑紫の香椎宮(カシイノミヤ 現在の福岡県福岡市東区香椎辺り)で天下を統治なさいました。

この地方に宮があるのは日本武尊に征伐された熊曽が再び反乱を起こしたので、制圧するためだったという説があります。

仲哀天皇大江王(オオエノミコ)の娘である大中津比売(オオナカツヒメ)と結婚してお生みになった御子は

香坂王(カゴサカノミコ)忍熊王(オシクマノミコ)のお2人です。

大江王日本武尊の系譜の矛盾点として出てきた方で、日本武尊弟橘比売の息子の孫(つまり日本武尊のひ孫)である

迦具呂比売日本武尊の父である景行天皇との子どもと書かれた人物です。

また神功皇后と結婚してお生まれになった御子は、

品夜和気命(ホンヤワケノミコ)

品陀和気命(ホンダワケノミコ)またの名を大鞆和気命(オオトモワケノミコ)後の応神天皇のお2人です。

この太子を大鞆和気命と名付けた訳は、初めお生まれになった時に、弓を射る時にまくのような肉が、お腕にできていたからです。

鞆 (和語の里さんのブログからお借りしました)

その聖なる表徴(シルシ)によって大鞆和気命と命名されました。

このことで、母の胎内にいながらにして、国を統治なさいます

仲哀天皇の時代に淡路島屯家(ミヤケ)を定めました。

はるさん的補足 応神天皇誕生の謎

これまでの歴代天皇の多くは、大和(奈良県)など畿内で生まれていました。

皇后となる女性の血筋が天皇家の直系またはそれに近いことが多かったからでしょう。

仲哀天皇も(景行天皇の孫?)とされる大中津比売とも結婚されています。

ところが応神天皇となる御子は九州でお生まれになったとされています。

応神天皇の母 (仲哀天皇の皇后)神功皇后の祖先は新羅の王子である天之日矛(アメノヒホコ)

祖父の兄は垂仁天皇に「常世国の実」を取ってくるよう命じられた多遅麻毛理(タジマモリ)です。

多遅麻毛理が垂仁天皇のために持ち帰ったといわれる橘

応神天皇は

生まれた時から腕に鞆があった」から

胎内から国を統治した

という、これまた意味不明な記述がなされています。

このようなこともあり、応神天皇は元は九州の王であり、仲哀天皇までの王統は異なるという説が水野祐博士をはじめ、多くの学者から提唱されています。

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コメント一覧
  1. 才色健躾 より:

    大鞆和気命の伝承は正に神道ですね
    何かに準え、後の世のある出来事を治める創作されました逸話の様に思えます。
    私は今まで天皇家の血統は奈良にてお生まれに為られたお方のみと推察していました。
    そうでは無い事を今回は学習適いました。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      応神天皇を描くために記紀を書いたのでは?と言われるほど、無理矢理辻褄を合わせていますね。
      複雑な部分は全て神がかりと処理されてます。
      応神天皇、その系統の継体天皇が現在の天皇に繋がっているのは確実とも言われてます。
      それを考慮して応神天皇の誕生譚を読むと、創作の意図を感じますね。

  2. さゆ より:

    景行天皇は御長命なので、御子のヤマトタケルのひ孫と結婚ができたのですね。
    応神天皇は、新羅の王子の御子息で、奈良で代々継がれた家系とは異なるのですね。なのに大勢のご子息の中から選ばれたのは、神功皇后が優れたお人柄で、ホンダワケノミコも天皇になるに最もふさわしかったのでしょうね。神巧皇后のお人柄がわかると嬉しいです。。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      景行天皇とヤマトタケルのひ孫のご結婚は、さすがに信憑性がないのではないかという説が一般的です。
      応神天皇は新羅の王子である天之日矛の御子孫である神功皇后の御子となっていますね。
      神功皇后のお話しはこれからまだ出てきます。
      ただ、お人柄で選ばれたわけではないような、、、笑

  3. ミカリン より:

    私の主人の出身は淡路島です。ルーツが屯家という言葉からきているのかな?と空想すると面白いですね天皇家は近親婚も多かったのですね多くの女性と子供を作っていたので、複雑怪奇な時代だったのでしょうね

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      たしかに!
      とても由緒正しい立派なお家柄の方なんですね

      この時代は父親が同じでも母さえ違えば兄弟の結婚もありなので、現代人から見ると複雑怪奇ですね、、、。

  4. Yoshi より:

    大鞆和気命の鞆(とも)について・・・言ったことあるかどうか?ですが、自分、弓道もやっていた事があります。
    まず鞆と言う用具は、現代では用いません。(太古に用いていた事があると聞いたことは(今思えばぐらいの感じで)一応ありました)

    和弓は、引き絞って射った後には弦がぐるっと回って腕の外側にまで回り込みます。
    弓を押す方の手、左手でよく「押せて」いた場合は、矢を射った後の弦が腕の外側、ひじのあたりに当たり、軽く打つ事がありますが、「痛い」とまで感じるほどの強さではありません。
    弦が当たって痛い・傷めるのを防ぐ用具・防具としてはそこまで意味が無いのかもしれない(いや強い弓だった場合には痛い・傷めるほどのものだったのかもしれませんが)と思いましたが、
    和語の里さんを拝読し、射手がしていた釧(くしろ、ブレスレットですね)に弦が当たって弦が切れるのを防ぐ「ブレスレットカバー」だと思えば、合点・納得がいきました。(ちなみに射場に立つ時には、基本、時計やブレスレット類はつけません)。
    また、弓についてもっともっと言うと、洋弓(アーチェリー)は半ば力づく?でまっすぐ弓を引いて射るのに対し、和弓は背筋・背中や肘の筋肉・骨や筋を使ってぐるっと周りこむような形で引き、射つので、所作さえちゃんとしていれば、基本的にはどんなに強い弓でも引けるし、かなりたくさんの数を射っても疲れたりへたばったりしにくいです。(新年には百射会、などといって一日かけて百本の矢を射る事をしたりしていました。)
    精度にはやや問題があるのですが(アーチェリーはセンチ・ミリ単位で狙い、当てるのが可能なのに対し、和弓はかなりアバウト。数十センチの誤差は当たり前。)でも威力もとても強いそうです。弓道をやっていたら一度は都市伝説的に聞く話なのですが、「射った瞬間に的場の前をその瞬間にパッと横切って走ってしまったた猫を、矢が完全に貫通して射抜いてしまった」というお話が(猫かわいそう)自分達の使っている弓で人体も射抜ける・射抜かれてしまうんだという、戒めの話なのだと思います)
    また射法については、合理的であるからかその所作は周りから見ても、不思議に、本当に美しいです。
    アツくなってしまいました‍♂️

    応神天皇には、生まれながらにして腕に鞆のような肉がついていたのですね。
    いやはや、胎内から政治を行なっていたとか、寧ろ応神天皇の辻褄あわせのために記紀が書かれたとか(いずれも全然存じ上げませんでした!)、とても興味深いトピックです。
    天の岩戸隠れとかヤマタノオロチ成敗といったお約束の有名譚ばかりではなく、記紀の真の醍醐味はこのあたりにこそあるのかもしれません。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      弓道をなさってたんですね!
      素敵です。
      鞆は天照大御神もお使いの道具だったので、このころは使われていたのでしょうね。
      Yoshiさんのおかげで、きちんとした所作で射れば疲れにくいことや、かなりの威力があることを知ることができました。
      ありがとうございました。
      応神天皇の神格化は群を抜いていますね。
      また上巻に戻ったような感覚を覚えます。

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