(93)『古事記』神武の後継争い「タギシミミの変」・太安万侶の氏祖注
神武天皇陵(奈良県)

これまでのあらすじ

神武天皇」は日向国にいた時に結婚し、2人の息子がいました。

しかし橿原で即位した後、皇后となる乙女を探したいと考え、大物主神の娘「ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多々良伊須気余理比売)」と結婚し、3人の息子が生まれました。

「古事記」における「タギシミミ(当芸志美々命)」の変

神武天皇」が137歳で亡くなると、御子の「タギシミミ」は(「神武天皇」と結婚して皇后となっていた)義母「ヒメタタライスケヨリヒメ」と結婚しました。

そして「ヒメタタライスケヨリヒメ」の3人の息子たちを殺害しようと企てました。


ヒメタタライスケヨリヒメ」は計画を知り、思い煩った末に歌に託して息子たちに知らせました。

・歌は呪力を持つ言葉なので、異変を伝えることができました。

・「ヒメタタライスケヨリヒメ」は常人とは違う能力を持っていたとも言われています。

歌を聴いた3人の御子たちはすぐに危険を察知しました。

そして先手を打って「タギシミミ」を殺害することにしました。

まず次男の「カムヤイミミ(神八井耳命)」が末弟「カムヌナカワミミ(神沼河耳命)」に促され、太刀を手に「タギシミミ」の宮殿に忍びこみました。

タギシミミ」は寝ていましたが、いざとなると手足が震えてしまい殺害できませんでした。

その様子を見ていた末弟の「カムヌナカワミミ」が兄から太刀を受け取り、宮殿に忍びこみ「タギシミミ」を斬り殺しました。

この事件の後、次男の「カムヤイミミ」は勇敢な弟に天皇になることを薦め、自分は守護人になることを誓いました。

長男の「ヒコヤイ(日子八井命)」は茨田連(ウバラタノムラジ)手島氏などの

次男の「カムヤイミミ」は意富(オオ)氏小子部(チイサコべ)氏坂合部(サカイベ)氏などの始祖になりました。

そして三男の「カムヌナカワミミ」は天下を統治しました。

綏靖天皇陵(奈良県)

「タギシミミ」の結婚

義母と結婚する意味

古代の統治者はヒコヒメ制といって、男性は政治を、女性は巫女として祭りを担当していました。

ヒメタタライスケヨリヒメ」との結婚は「タギシミミ」が祭祀権を掌握したことを意味します。

何故「ヒメタタライスケヨリヒメ」は「タギシミミ」と結婚したか

ヒメタタライスケヨリヒメ」が結婚した理由については

・皇位を狙う「タギシミミ」が強引に結婚した

・「神武天皇」が崩御された頃は後継者が「タギシミミ」だと思われていた

など推測されます。

もし後者だとすると反乱を起こしたのは「タギシミミ」か?という疑問が湧いてきますね。

タギシミミ」とはどんな御子だったか見てみましょう。

「タギシミミ」とは

それほど記述はないのですが、「日本書紀」によると「タギシミミ」は「神武天皇」の長男として東征にずっと付き添っており、政にも参加していました。

ですからその頃は後継者とされていたのでしょう。

それが、父「神武天皇」が即位し綺麗な若い乙女と結婚すると(後妻が皇后となった)、3人の男子が生まれます。

つまり後継者争いが混沌としてしまったのです。

反乱を起こしたのは誰か?

古事記」の記述通り「タギシミミ」が反乱を起こしたかもしれません。

しかし我が子に皇位を継がせたい「ヒメタタライスケヨリヒメ」(や彼女の実家)が「タギシミミ」の動向を探るために結婚したとも考えられ、そしてタイミングを図って殺させたのかもしれません。

ヒメタタライスケヨリヒメ」は前回書いたように製鉄と深い関係の氏族出身ですので、ご実家の方でうごめく方々がいたようにも思えます。

この辺りはミステリアスですね。

舞台があったとされる橿原

「古事記」を編纂した太安万侶(オオノヤスマロ)

(86)「神武天皇」の東征・「神武天皇」は実在したかの記事で、「神武天皇」は作為的に作られた存在であるという説が多いことを書きました。

綏靖天皇」以後、第9代「開化天皇」までは欠史8代と呼ばれ、後世の方々の創作と主張する研究者が多いようです。

しかし、第8代「孝元天皇」までの間にはこの記事の「ヒコヤイ」「カムヤイミミ」のように重要な氏族や豪族の氏祖注(シソチュウ)が記されています。

古事記」を編纂した太安万侶太(オオ)氏は「カムヤイミミ」(綏靖天皇の兄)を氏祖注とする意富(オオ)氏の下に記されています。

太安万侶自らの家系を王家の系譜に組み入れたものと考えられています。

天地開闢からここまでの記事

これまでの記事はこちらからご覧ください。

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