(64)『古事記』「タケミナカタ」「タケミカヅチ」に服従する
「タケミナカタ(建御名方神)」

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これまでのあらすじ

この回に出てくる神の名前がとても似ているので
タケミナカタ(建御名方神) 」は岩を持ったということから「タケミナカタ🪨」
タケミカヅチ(建御雷神) 」は雷の神なので「タケミカヅチ⚡️」
と表記します。

オオクニヌシ(大国主命)」が平定した地上(葦原中国)を「アマテラス(天照大御神)」は
私の子に統治させたいわ
と言い出します。

まず「ホヒ(天菩日神)」ついで「ワカヒコ(天若日子)」を地上に送りましたがいずれも失敗。

最後に「タケミカヅチ(建御雷神)⚡️」を送りました。

タケミカヅチ((建御雷神)⚡️」は「オオクニヌシ」に国譲りを迫ります。

すると「オオクニヌシ」は息子「コトシロヌシ(言代主神)」に聞くように言いました。

そして「コトシロヌシ」はあっさりと国譲りを了承しました。

「タケミナカタ🪨」
「タケミカヅチ⚡️」に服従する
「古事記」におけるこの場面

出雲から諏訪湖まで逃避


タケミカヅチ
コトシロヌシ」は国を譲ると答えたが
他に相談すべき御子はいるか。
オオクニヌシ
もう1人だけいます。
タケミナカタ🪨」という者です。
その「タケミナカタ🪨」は大きな岩を軽々と持って現れて、「タケミカヅチ⚡️」に

タケミナカタ
力比べをしようではないか。
と挑みました。

しかし「タケミカヅチ⚡️」には全く歯が立たず投げ飛ばされてしまいました。

タケミナカタ🪨」は逃げますが「タケミカヅチ⚡️」は追っていきます。

そして長野県の諏訪湖に追い込み殺そうとしました。

すると
タケミナカタ
この地に留まって他にどこにも行きませんから、どうか殺さないで下さい。
父「オオクニヌシ」にも「コトシロヌシ」にも背きません。
この葦原中国は「アマテラス」の御子に奉(たてまつ)ります。
と言い、降伏しました。

「タケミナカタ🪨」とはどんな神か

タケミナカタ🪨」は「オオクニヌシの系譜」にも「日本書紀」にも登場しない神です。

180人いる「オオクニヌシ」の子供の1柱としてここで突如登場します。

(「オオクニヌシ」と「ヌナカワヒメ(奴奈川姫)」の子供だという説もあります。)

「タケミナカタ🪨」を名前から考える

タケ」…神の勇猛さを讃える美称
ミナカタ」…諏訪湖の水潟か?
つまり「勇猛な諏訪湖の神」という意味です。

諏訪大社の縁起が書かれた「諏訪大明神絵詞(スワダイミョウジンエコトバ)」によると「タケミナカタ🪨」は 出雲勢力や大和勢力と接触する前から諏訪大社に祀られていたとされています。

ですから、元々諏訪地方で信仰されていた土着の神であると考えられます。

諏訪大社(長野県)

「タケミナカタ🪨」を「古事記」に登場させた理由

オオクニヌシ」の系譜にも登場しない「諏訪の神」である「タケミナカタ🪨」をこのような重要な場面で登場させたことについては多くの議論があります。

現在は「古事記」編纂の後にこの説話を組み込んだのであろう
という考えが主流です。

つまり「タケミナカタ🪨」は「オオクニヌシ」の子供ではなく「諏訪の神」ですが何らかの理由でここに挿入したのだろうということです。

タケミナカタ🪨」を「古事記」に登場させた理由は数多くの書かれていますが、私が共感する3つを紹介します。

①諏訪は古来、東北の辺境の地への抑えの要所だった。
そのため、諏訪で崇められていた「タケミナカタ🪨」を「古事記」に組み込むことによって諏訪の権威を高めた。

②どんなに強くても国津神では「タケミカヅチ⚡️」(朝廷側であり中臣氏が信奉する神)に敵わないと言いたかった。
と同時に「タケミカヅチ⚡️」の神威性を高めた。

③出雲族がヤマト朝廷に服従した後も、高志族(北陸)が反抗し続けていて、その後ようやく平定できたという史実が反映されているのではないか。
タケミナカタ🪨」が出雲水路で北陸まで行き糸魚川あたりの水系を通って諏訪湖まで逃げたと考えると「ヌナカワヒメ伝説」と共に「古事記」に挿入された意図が想像できる。

はるさん的補足
戦いに敗れたのに武神となった
「タケミナカタ🪨」

武田信玄像(山梨県)


タケミナカタ🪨」は「タケミカヅチ⚡️」に全く歯が立たず、逃げた上に命乞いをするあまり強そうでない神に見えます。

しかし「タケミナカタ🪨」は平安時代に「東国の武神」として名を高めます。

何故でしょうか

先に意見を求められた「オオクニヌシ」の息子「コトシロヌシ」は神の言葉を聞いたとし、即座に降参し隠れてしまいました。

しかし、「タケミナカタ🪨」は「タケミカヅチ⚡️」という圧倒的に強い神に対しても臆することなく戦いを挑み、しかも生き残りました。

そのため「タケミナカタ🪨」は「武勇掲揚の神」になります。

タケミナカタ🪨」を祀る「諏訪大社」は鎌倉時代には北条氏が後ろ楯となり、武士の守護神として各地に勧請されました。

その後も武田信玄公徳川家康公に崇敬され、現在では分社「諏訪神社」は5000社以上あると言われています。

(おまけ)諏訪大社にある 万治の石仏

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コメント一覧
  1. 才色健躾 より:

    今回は□と雷のマークによりとても理解できました。
    信玄さま、家康さまより崇敬されていることから”強い”偉大な神様と分かりました
    また古事記とは辻褄の合うように編纂されていることも分かりました。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      わかりやすくなっていたら、すごく嬉しいです!
      何であんなに似た名前にするんでしょう。泣
      日本は天皇家が続いている中での歴史書の編纂なので、どうしも忖度の多い内容となるようですね。

  2. さゆ より:

    タケミノカタは「古事記」では、オオクニヌシは子と言っていましたが、オオクニヌシの子ではなく、強い諏訪の神だったのですね。
    でも、負けて、朝廷に対して反対勢力も多い北陸も通り、諏訪まで逃げたのですね。
    諏訪の神とすると、「古事記」の子との記述と異なるけど、組み込んだ朝廷側の者は、それでも、読者がそう思ってほしいのでしょうね。
    勇敢且つ、状況判断が的確で、引くときは引く神として、戦国武将にも崇敬され、諏訪大社に祀られているので、幸せな神だったのではないかと思います。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます
      オオクニヌシの子が180人と言われています。
      180人というのは、ただ大袈裟に、とてもたくさんのという意味にもとれますが、オオクニヌシを慕う各地の豪族とも取れます。そうすると矛盾がないように思うのです。
      今もこんなに慕われ(タケミカヅチの鹿島より分祠されてる)、名だたる戦国武将に尊敬された、、、おっしゃる通り、とても幸せな神だと思います!

  3. よしちゃん より:

    タケミナカタさん・・コトシロヌシのお兄さんという認識しかありませんでした!!
    突然出てきた&日本書紀には登場しないのですか!全然知らんかった。
    いやはや、驚きしかありません。はるさんの考察本当にすごいです!

    鎌倉時代、諏訪、北条の後ろだて・・・今の大河ドラマにも、とてもタイムリーなんですね

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      タケミナカタさんの人気というか諏訪神社の分祠の多さは特別ですね。
      鹿島よりずっと多いのが不思議な気もします。
      御柱や神渡りなども魅力的ですが。

      私の考察というのではなく、多くの古事記研究者たちの考察になりますが、タケミナカタはオオクニヌシの実子では無いと思います。

      北条氏、信玄、家康、、、素晴らしい方々に信奉されてタケミナカタさん幸せですね

      • よしちゃん より:

        タケミナカタさんはオオクニヌシの実子ではない?
        コトシロヌシとは腹違い、とかでもなく?御家人(部下)とかだった感じでしょうか。

        古事記研究者の方々がされたすごい研究成果を、普通の人たちにわかりやすく解いてくださる
        はるさんのブログはありがたいし、凄いと思います。

        • harusan0112 より:

          オオクニヌシの系譜に載ってないんですよね。
          日本書紀にもタケミナカタさんは出てこないですし。
          実は宣長は記載漏れかもと言ってますが、さすがにこのような重要な息子を系譜から漏らすとは考えにくいかと。
          オオクニヌシの180人の子供というのも現実味がないと思うので、オオクニヌシを慕う部族を子供とカウントしたのだと思います。
          諏訪には諏訪神として、タケミナカタ信仰があったようなので物語りとして
          オオクニヌシ側に書き入れたと考える方が辻褄が合うような気がします。

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