これまでのあらすじ
第26代継体天皇が即位しました。
竺紫君石井(ツクシノキミノイワイ)が天皇の命令に従わず、無礼な事が多くありました。それで、
・物部荒甲之大連(モノノベノアラカイノオオムラジ)
・大伴之金村連(オオトモノカナムラノムラジ)
の2人を遣わせて、石井を殺させました。
という記述があります。
今回はその石井の乱 (通称:磐井の乱) について書いていきます。
日本書紀における 磐井の乱
磐井の乱に関する文献はほぼ「日本書紀」に限られているので、そのまま引用させていただきます。
527年(継体天皇21年)6月3日、大和朝廷の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の筑紫国造磐井へ贈賄し、大和朝廷軍の妨害を要請した。
磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。大和朝廷では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命され、天皇から筑紫以西の統治を委任された。
528年11月11日、磐井軍と大将軍の麁鹿火率いる大和朝廷軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉を大和朝廷へ献上し、死罪を免ぜられた。
乱後の529年3月、大和朝廷(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。
「磐井の乱」Wikipedia 『日本書紀』による、磐井の乱の経緯を引用
磐井の乱の背景
当時の朝鮮半島の情勢
当時の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済の三国が覇権を争う三国時代でした。
その三国の他に、朝鮮半島南部に伽耶(カヤ)という小国群がありました。
伽耶の中に、ヤマト政権の拠点もありました。
(ヤマト政権は百済と親交がありますね。
参考記事 :(137)百済からもたらされた文化・技術 )
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6世紀に入ると新羅が勢力を拡大し、高句麗が南下してきます。
すると百済は南方に活路を見出そうとしてきました。
そこでヤマト朝廷が半島の拠点としていた(伽耶の)任那諸国(ミマナショコク)が新羅・百済両国の圧迫を受けることになりました。
そんな中、新羅が高句麗を撃ち破ります。
するとかつて高句麗の南下阻止に失敗していたヤマト朝廷の権威が失墜。
新羅はヤマト朝廷 (継体天皇) に任那の内、百済に接した4県の割譲を迫って来ました。
大伴金村は百済との今後の共同のために512年に4県の割譲を認めます。
任那4県割譲の翌年、百済は使者をヤマト朝廷に派遣し、援軍を要請して来ました。
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ヤマト朝廷は近江の豪族である近江毛野(オウミケヌ)に任那の侵攻を命じ、6万人の兵を朝鮮半島に派遣しようとしました。
近江毛野が出兵するためには北九州を通らなくてはなりません。
磐井の乱
すると九州北部を治める筑紫国造磐井(ツクシノクニ クニツクリ イワイ)が妨害してきました。
国造とは
ヤマト政権から任命されてその土地を統治していた大豪族のことです。
磐井が反発した理由とされる4つの説
・「日本書紀」では磐井が新羅から賄賂を貰っていたためと説明しています。
・当時のヤマト政権の力はそれ程強くなく、九州の北部を統治していた磐井は元から新羅と親交があったとも言われています。
・朝鮮出兵が行われる際には、九州から多くの物資や兵士が徴収されていたために、九州の人々は疲弊していたので政権に反発したとも考えられます。
・継体天皇ご自身が出自がはっきりしない天皇だったので、その正当性も揺らぎ、ヤマト政権に反発心を抱く豪族が多かったとも思われます。
磐井の乱の経緯
挙兵した磐井は熊本・大分あたりまで制圧し、近江毛野率いるヤマト政権軍と交戦しました。
ヤマト政権軍も一時は苦戦し、軍を派遣することになります。
その時のヤマト政権の将軍が物部荒甲之大連(モノノベノアラカイノオオムラジ)(「日本書紀」では物部大連麁鹿火 モノノベノアラカビ ) です。
乱勃発の1年半後、528年に筑紫三井郡 ( 御井とも表記されます。現在の福岡県小郡市三井郡辺り)で激闘。
磐井軍は敗退し、磐井も戦死したと言われています。
磐井の墓
福岡県八女市に岩戸山古墳という名前の北九州最大の前方後円墳があり、
磐井の墓とされています。
写真にあるような石人など、多くの石製品が出土し、(埴輪と違った)九州北部の独立性をうかがわせます。
磐井の乱がもたらせたこと
磐井の乱のあと ①屯倉の設置
磐井の死を持って、磐井の乱は終わりましたが、磐井の息子である葛子(クズコ)は糟屋(カスヤ) をヤマト政権に献上しました。
糟屋(現在の福岡県糸島市の辺り)は朝鮮半島との交易の拠点でもあり製鉄の地でもありました。
ヤマト朝廷はさらに屯倉を設置し、地方支配は九州にも浸透していきます。
屯倉とは
地方に置かれたヤマト政権の直轄地です。
磐井の乱のあと ② 大伴氏の衰退と物部・蘇我氏の台頭
磐井の乱の頃、ヤマト政権の権力者は大伴金村でした。
大伴金村は4県の割譲や大きな反乱を招いた責任を問われてしまいます。
代わりに台頭してきたのが磐井の乱を制圧した物部氏です。
そして各地に屯倉を造るにあたり活躍したのが蘇我氏で、この頃からヤマト政権の中でも物部氏と蘇我氏は権力を付けていくことになります。
はるさん的補足 磐井の乱の後の朝鮮半島
磐井の乱をなんとか鎮圧できたヤマト政権は近江毛野率いる軍を、529年に任那に送り影響力の維持を狙います。
近江毛野は新羅・百済と外交交渉を試みましたが決裂。
軍の力を使って伽耶諸国の奪還を試みましたがそれも失敗に終わります。
こうして6世紀後半には朝鮮南部はすべて新羅・百済の手に落ち、日本は支配力を完全に失いました。
しかし百済とヤマト政権の友好的な関係はこの後も続きます。
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中巻(神武天皇から応神天皇)
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