(65)『古事記』「オオクニヌシ」の国譲り


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これまでのあらすじ

オオクニヌシ(大国主命)」が平定した地上(葦原中国)を「アマテラス(天照大御神)」は
私の子に統治させたいわ
と言い出します。

まず「ホヒ(天菩日神)」ついで「ワカヒコ(天若日子)」を地上に送りましたがいずれも失敗。

最後に「タケミカヅチ(建御雷神)⚡️」を送りました。

タケミカヅチ((建御雷神)⚡️」は「オオクニヌシ」に国譲りを迫ります。

オオクニヌシ」は息子「コトシロヌシ(事代主神)」と「タケミナカタ(建御名方神)」に聞くように言いました。

すると「コトシロヌシ」はあっさりと、「タケミナカタ」は抵抗したものの力負けして国譲りを承諾しました。

「オオクニヌシ」の国譲り 「古事記」におけるこの場面

タケミナカタ🪨」に諏訪から出ないことを約束させると、「タケミカヅチ⚡️」は出雲に戻って来ました。

そして「オオクニヌシ(大国主命)」に
タケミカヅチ
お前の子供「コトシロヌシ」と「タケミナカタ🪨」は天津神に従う(国を譲る)と誓ったが、お前はどうなのだ。
と問います。
オオクニヌシ
二神の言う通り、私も背きません。
この葦原中国は全て差し上げます。
ただし一つお願いがあります。
天津神の御子が皇位につくような壮麗な高天原に届くほど高い、御殿のような神殿を建てていただけないでしょうか。
そうすれば私は遠い幽界に隠れております。
私には180人の子供がおりますが、息子の「コトシロヌシ」が天津神さまにお仕えする様子を見れば皆、従うでしょう。
と言って言葉通り隠れました。

オオクニヌシ(大国主命)」はとても人(神)徳があったことから、おそらく本当の子供も相当数いたのでしょう。

しかし、それ以外でも「オオクニヌシ」の子だと名乗る者も多かったと思われます。

また、180人の子というのは「オオクニヌシ」に従おうとする(朝廷に逆らおうとする)各地の部族や豪族の数とも考えられます。
そこで「タケミカヅチ⚡️」は出雲の多芸志(タギシ)の浜に神殿を建て水戸神の孫にあたる「クシヤタマノカミ(櫛八玉神)」を膳夫(カシワデ)としてお仕えさせご馳走を作らせました。

出雲の多芸志(タギシ)の浜は架空の場所のようですがこの神殿は出雲大社のことだと言われています。
こうして使命を果たした「タケミカヅチ⚡️」は高天原に帰り、葦原中国の平定を終えたことを報告しました。

「古事記」における「出雲大社」の創建

発見された柱「古代出雲歴史博物館」

創建された当時の「出雲大社」

この説話は出雲大社の起源を語っています。

現在は高さが24メートルの社殿で、「オオクニヌシ」が隠遁した場所にしては物足りないと思われていました。

ところが2000年に境内から太さ3メートルの巨大柱の遺構が発見されました。

これは現在の柱の5倍の太さで、当時94メートルあったという神殿の規模を伺わせるものであり、「オオクニヌシ」が鎮座した場所にふさわしい巨大神殿があったのは確実だと考えられます。

立派な神殿が建てられた理由



オオクニヌシ」の国譲りはヤマト王朝に抵抗した勢力の敗退を意味していると言われています。

オオクニヌシ」は各地で信仰されていたため、丁重に扱うことで各地の豪族や部族の反発を抑えたと考えられます。

はるさん的補足
「日本書紀」における「出雲大社」の創建理由

東洋文庫所蔵の慶長「日本書紀」


古事記」と「日本書紀」は同じような物だと思われることがありますが、この場面はかなり違います。

日本書紀」では「オオクニヌシ」が「幽界の神事を司る代わりに宮を建ててあげよう」と「タカミムスビ(高皇産霊尊)」が宣言します。

幽界の神事」とは目に見えないありとあらゆることを意味します
つまり「日本書紀」では出雲大社は「オオクニヌシ」が頼んで建ててもらったものではなく、
天津神である「タカミムスビ(高皇産霊尊)」が「出雲大社を建ててあげる(から目に見えない事だけして大人しくしてろ)」と言っているのです。

古事記」が「オオクニヌシ」に対して最大限に丁寧に扱っているのに対して、
日本書紀」は勝者の敗者に対する扱いという感じです。

そうなると、膳夫を呼んでおもてなしをしたのも「古事記」では「タケミカヅチ」が「オオクニヌシ」をもてなしたと考えられますが、
日本書紀」では「オオクニヌシ」が「タケミカヅチ」をおもてなししたと読むことになります。

日本書紀」が「古事記」よりもヤマト王朝に気を遣って書かれたものだとわかる部分ですね。

古事記の他の記事

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中巻(神武天皇から応神天皇)

下巻(仁徳天皇から推古天皇)

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コメント一覧
  1. よしちゃん より:

    史実・真実はどうあれ「ヤマト王朝が元あった有力者を攻め滅ぼした」のは間違い無いとして、
    自分の興味は、ヤマト王朝としては敬意を払ったのか、恨まれたら怖いからとか後ろめたさゆえ
    最低限の対策・待遇はした、のか。

    その後の歴史でも菅原道真公みたいに、無念の死後悪い事がたくさん起こったから祟りだという事で
    神様として祀り崇められる(あがめるってこんな漢字書くんですね)、なんて事もあったりで。

    それにしても「日本書紀の方には忖度を感じる」お話にも、深い感銘を受けました。
    はるさんのは本当に面白い、興味深いブログだと思います。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪
      祟りというか怨霊などは、現代よりずっと信じられていたと思います。
      ですので、恨まれることはなるべく避けたでしょうね。
      現実的にも、復讐されることは避けたいでしょうから、オオクニヌシにはいい暮らしを用意する方が保身のためにもいいと考えるのが妥当でしょう。
      古事記より日本書紀の方が海外向けであり、そのため現朝廷(天皇家)を神格化させる必要があったのだと思います。

  2. 才色健躾 より:

    国造りのお話しはとても面白いです
    全国津々浦々のオオクニヌシ様信仰神社はその様な意味もあるのですね
    神様同士の信仰勢力争い。
    そして古事記と日本書紀の相違…次回も楽しみです。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪♪
      オオクニヌシはとてつもないパワーを持った神だったと思います。
      メディアのない時代にオオクニヌシ信仰があったこと、タケミナカタをはじめ、人気の神様がいたことも驚きです。
      古事記よりも日本書紀のほうが海外向けなので、現朝廷(720年ころの天皇家)の凄さを際立たせる必要があったのだろうと思います。

  3. さゆ より:

    「古事記」では、タケミカヅチが、「日本書紀「」では、タカミムスビが出雲大社を建てたと書かれているのですね。
    膳夫を呼んでおもてなしした記述は同じでも、2通りに解釈ができるのですね。面白いです。
    出雲大社が建てられたのはいつだったのか知りたくて、調べてみました。少なくとも8世紀には大きな社が建てられたそう。今の本殿は延享1744年に建てられたそうです。
    壮大な建物ですね。

    • harusan0112 より:

      ありがとうございます♪♪
      日本書紀は古事記より天皇家(天津神)の強さを強調してますね。
      そのニュアンスが伝わる面白い場面なので紹介しました。
      出雲大社の今の本殿は江戸時代。
      創建された当初の物は流石に台風や地震に耐えられなさそうな構造ですね。
      平安時代には48メートルくらいの社殿だったという記録があります。
      その時点で既に最初のものから建て替えられているんですね。

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