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「イザナギ」と共に「神生み」「国生み」に励んだ「イザナミ」ですが、「火の神カグツチ」を出産した時に火傷を負い、亡くなってしまいます。
亡くなると「黄泉(ヨミ)の国」という死者の世界に行き、そこの女王になります。
「イザナギ」は「イザナミ」の死因を作った「カグツチ」を殺しましたが、淋しさに堪えきれず「イザナミ」の元を訪ねます。
(「イザナミ」には雷神がまとわりつき、ウジ虫がたかっていました。)
恐ろしくなって逃げると、その姿に怒ったイザナミは黄泉醜女(ヨミツシコメ)や今生み出したばかりの八雷神(ヤクサノイカヅチ)と共にイザナギを追いかけます。
逃げるイザナギは簪(カンザシ)を投げ、桃や筍など黄泉醜女の好きな物に変化させ黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)まで 逃げ続けました。
参考記事
一般的に「死んでから行く冥界」と理解されていますがどこにあるとイメージされていたのでしょうか。
この頃の人々の「死後の世界観」を知る上で「古事記」における「黄泉の国」の記述は大きなヒントを与えてくれます。
そしてそれは「地下の泉」であるとされています。
一般的に「黄泉の国」は地下にあるイメージが強いかもしれません。
「カグツチ」を出産して亡くなった「イザナミ」は出雲と伯伎国(ホウキノクニ、鳥取県西部)の境の比婆山(ヒバヤマ)に葬られたと明記されています。
そして「イザナギ」は実際に「イザナミ」を迎えに「黄泉の国」に行っているとも書かれているので、比婆山と「黄泉の国」は密接な関係があると考えられます。
また逃げ帰った「イザナギ」は「出雲の伊賦夜坂を通った」とも書かれています。
ですから「山(ヤマ)」、または周辺を指す「四方(ヨモ)」の音が変化して「黄泉(ヨミ)」になったという説です。
しかし、「古事記」を丁寧に読み、実際に出雲を訪れてみると、必ずしもご遺体を地下に埋めていなかったであろうと思い、となると「黄泉の国」は地下ではないように思うようになりました。
「古事記」では「イザナミ」や「カグツチ」だけでなく「オオゲツヒメ」からもその屍から多くのものが生まれてます。
「古事記」編纂期はまだ火葬という埋葬方法ではありませんでした。
出雲の地には多くの山々があるので亡くなったら山の上に埋葬するかもしれませんし、山の中腹に横穴を掘って土葬していたかもしれません。
日本の場合、「冥界と現世の境目がやや曖昧」で、亡くなってなお「屍からも肥料として人々に恩恵を与えてくれる存在」だったり「魂が浮遊して子孫を守ってくれている精霊のようになると思われていたのではないか」と思うのです。
この場面でもブドウ、桃、筍といった食べ物が出てきます。
「古事記」を読んでいると、屍と食べ物が密接な関係として出てきます。
中国から冥界を示す「黄泉」という文字をお借りしたものの、日本人は独自の「曖昧な死後の世界観」を持っていた(或いは今も)ように思います。
一度でも「ヨモツヘグイ」をしてしまうと、「地」に帰ることはできません。
それは「供食信仰」が関係していると言われています。
「供食信仰」とは地域や家族と同じ物を食べてコミュニティの一体化を図ることです。
つまり亡くなった「イザナミ」がどんなに「イザナギ」と愛し合っていても「ヨモツヘグイ」をしてしまった以上「黄泉の国」の人になってしまったということを意味します。
そして「黄泉の国の神」に相談に行きます。
しかしその間
「覗かないでね」
と頼んだにも関わらず「イザナギ」は覗いてしまいます。
そのことによって「イザナミ」は冥界から抜けられなくなってしまいました。
ギリシャ神話の「オルフェウス神話」にとても似ています。興味のある方はこちらをご覧ください。
これは「死んでしまったら、二度と生き返らない」ことを示しているでしょう。
なんとか逃げられた「イザナギ」は「黄泉比良坂(ヨモツヒラザカ)」までたどり着くと、大岩で出口を塞ぎます。
これは「生」と「死」の世界を完全に遮断したことを表しているでしょう。
ですがこの場面こそ「古代日本人の死生観」を表していると思うのです。
日本人にとっては冥界がどこにあっても、死んだ人間が生き返らなくても、死後は八百万の神の1柱や精霊となって愛する人をそっと見守っている存在になると考えられていたのではないでしょうか。
「黄泉の国」の入り口とされる場所もいくつかありますが、その中の一つが松江にあります。
「黄泉比良坂」という地名もあり、近くには「揖夜神社(イヤジンジャ)」があり主祭神として「イザナギ」が祀られています。
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『日本神話タロット』塔「黄泉の国の女王イザナミ」
❾までのあらすじ「イザナギ」と共に「神生み」「国生み」に励んだ「イザナミ」ですが、「火の神カグツチ」を出産した時に火傷を負い、亡くなってしまいます。
亡くなると「黄泉(ヨミ)の国」という死者の世界に行き、そこの女王になります。
「イザナギ」は「イザナミ」の死因を作った「カグツチ」を殺しましたが、淋しさに堪えきれず「イザナミ」の元を訪ねます。
『日本神話タロット 極参』塔「黄泉の国の女王イザナミ」
「塔」のカードの意味
・正位置
崩御、悲劇、洗脳、被害妄想、自己破壊、破綻
・逆位置
緊迫、誤解、不幸、屈辱、災害
『日本神話タロット 極参』塔「黄泉の国の女王」の解説文(写し)
黄泉の国にイザナミを迎えに行ったイザナギは、「準備をする間覗かないように」と警告されますが、あまりにも遅いため気になって覗いてしまいました。(「イザナミ」には雷神がまとわりつき、ウジ虫がたかっていました。)
恐ろしくなって逃げると、その姿に怒ったイザナミは黄泉醜女(ヨミツシコメ)や今生み出したばかりの八雷神(ヤクサノイカヅチ)と共にイザナギを追いかけます。
逃げるイザナギは簪(カンザシ)を投げ、桃や筍など黄泉醜女の好きな物に変化させ黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)まで 逃げ続けました。
参考記事
「黄泉の国」とは
「黄泉の国」とはどんな所でしょうか。一般的に「死んでから行く冥界」と理解されていますがどこにあるとイメージされていたのでしょうか。
この頃の人々の「死後の世界観」を知る上で「古事記」における「黄泉の国」の記述は大きなヒントを与えてくれます。
「黄泉の国」の名前の由来
諸説ありますが、ここでは2つの説を紹介します。①中国の「黄泉」からとった説
中国で死者が赴く所を「黄泉(コウセン)」と言います。そしてそれは「地下の泉」であるとされています。
一般的に「黄泉の国」は地下にあるイメージが強いかもしれません。
②「ヤマ」「ヨモ」の音が変化して「ヨミ」になった説
「古事記」の不思議な所の一つは、「高天原」「黄泉の国」など架空の場所と並んで実在の地名が表記されている所です。「カグツチ」を出産して亡くなった「イザナミ」は出雲と伯伎国(ホウキノクニ、鳥取県西部)の境の比婆山(ヒバヤマ)に葬られたと明記されています。
そして「イザナギ」は実際に「イザナミ」を迎えに「黄泉の国」に行っているとも書かれているので、比婆山と「黄泉の国」は密接な関係があると考えられます。
また逃げ帰った「イザナギ」は「出雲の伊賦夜坂を通った」とも書かれています。
ですから「山(ヤマ)」、または周辺を指す「四方(ヨモ)」の音が変化して「黄泉(ヨミ)」になったという説です。
はるさん的考察
以前私は、ギリシャ神話のハデスが支配する冥界のイメージや、現在は亡くなった人を火葬し地下に埋めることから、「冥界は地下にある」というイメージを持っていました。しかし、「古事記」を丁寧に読み、実際に出雲を訪れてみると、必ずしもご遺体を地下に埋めていなかったであろうと思い、となると「黄泉の国」は地下ではないように思うようになりました。
「古事記」では「イザナミ」や「カグツチ」だけでなく「オオゲツヒメ」からもその屍から多くのものが生まれてます。
「古事記」編纂期はまだ火葬という埋葬方法ではありませんでした。
出雲の地には多くの山々があるので亡くなったら山の上に埋葬するかもしれませんし、山の中腹に横穴を掘って土葬していたかもしれません。
日本の場合、「冥界と現世の境目がやや曖昧」で、亡くなってなお「屍からも肥料として人々に恩恵を与えてくれる存在」だったり「魂が浮遊して子孫を守ってくれている精霊のようになると思われていたのではないか」と思うのです。
この場面でもブドウ、桃、筍といった食べ物が出てきます。
「古事記」を読んでいると、屍と食べ物が密接な関係として出てきます。
中国から冥界を示す「黄泉」という文字をお借りしたものの、日本人は独自の「曖昧な死後の世界観」を持っていた(或いは今も)ように思います。
「黄泉の国」神話が表していること
「ヨモツヘグイ」をした「イザナミ」
「古事記」によると亡くなった「イザナミ」は「黄泉の国」で「ヨモツヘグイ」をしてしまいます。「ヨモツヘグイ」は「黄泉竈食」と書き、「黄泉の国」のカマドで煮炊きした食べ物を食べてしまったということです。
それは「供食信仰」が関係していると言われています。
「供食信仰」とは地域や家族と同じ物を食べてコミュニティの一体化を図ることです。
つまり亡くなった「イザナミ」がどんなに「イザナギ」と愛し合っていても「ヨモツヘグイ」をしてしまった以上「黄泉の国」の人になってしまったということを意味します。
「見るなのタブー」を犯した「イザナギ」
しかしその後「イザナギ」が来て「一緒に帰ろう」と言うと、 喜んだ「イザナミ」は一旦は一緒に帰る約束をします。そして「黄泉の国の神」に相談に行きます。
しかしその間
「覗かないでね」
と頼んだにも関わらず「イザナギ」は覗いてしまいます。
そのことによって「イザナミ」は冥界から抜けられなくなってしまいました。
ギリシャ神話の「オルフェウス神話」にとても似ています。興味のある方はこちらをご覧ください。
このように死んだ妻を迎えに冥府まで行くものの「見てはいけない(振り返ってはいけない)」と言われていたのに見てしまったために、冥府から妻をつれて帰ることができなくなってしまったという話しを「オルフェウス型神話」といいます。
「イザナギ」が置いた大岩
覗かれたことを怒った「イザナミ」は追っ手を使って「イザナギ」を追いかけます。なんとか逃げられた「イザナギ」は「黄泉比良坂(ヨモツヒラザカ)」までたどり着くと、大岩で出口を塞ぎます。
これは「生」と「死」の世界を完全に遮断したことを表しているでしょう。
はるさん的補足 揖夜神社
「黄泉の国神話」は実在する地名と架空の冥界が壮大に絡み合うスケールの大きい話しです。ですがこの場面こそ「古代日本人の死生観」を表していると思うのです。
日本人にとっては冥界がどこにあっても、死んだ人間が生き返らなくても、死後は八百万の神の1柱や精霊となって愛する人をそっと見守っている存在になると考えられていたのではないでしょうか。
「黄泉の国」の入り口とされる場所もいくつかありますが、その中の一つが松江にあります。
「黄泉比良坂」という地名もあり、近くには「揖夜神社(イヤジンジャ)」があり主祭神として「イザナギ」が祀られています。
古事記の他の記事
古事記の他の記事はこちらからご覧ください。
上巻(天地開闢から海幸彦山幸彦)
中巻(神武天皇から応神天皇)
下巻(仁徳天皇から推古天皇)
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